広島牛の歴史

広島と牛の歴史はかなり深く長い

広島県は1000年以上前から日本三大牛馬市場の1つとして栄えていました。牛馬市とは牛と馬の取引する市場のことです。三大牛馬市は、現在の鳥取県西伯郡大山町で行われた伯耆の「大山の牛馬市」、現在の大分県杵築市で行われた豊後の「浜の牛馬市」、そして現在の広島県三原市久井町で行われた備後の「杭の牛馬市」です。最盛期には1万7000頭の牛馬が集まって地域を盛り上げていました。当時、牛は食用目的としてだけではなく、農業の助けとしても活躍していましたが、農作業の機械化が進み牛馬市の取り扱い頭数も少なくなり、「杭の牛馬市」は1964年に閉鎖されています。しかしその歴史の中で、江戸時代後期には広島の牛は和牛の系統として確立され、全国和牛能力共進会(和牛オリンピック)で2大会連続の日本一を取るなど、広島牛は歴史の深さだけではなく品質の良さも兼ね備えています。

広島ブランド

復活のブランド牛『比婆牛』と『神石牛』

広島牛の系統の中でも、『比婆牛』と『神石牛』は古い歴史と確固たる品質を持ち合わせています。庄原市産の牛を県内で飼育した血統牛を比婆牛ブランドとして認定されており、庄原市は全国和牛登録協会に『最古の蔓牛』として認定を受けた『岩倉蔓』の起源があります。(※優良な系統牛のことを『蔓(つる)』と言います)比婆牛は古くは『役牛』=農耕用、厩肥用、物資運搬用として育てられていましたが、近代に入り肉食としても用いられるようになり役肉用牛へと役割が移っていき、1950年代に入ると農耕、物資運搬の機械化により役牛としての役割は減り、肉用牛として買われるようになりました。比婆牛は肉食としての役割において高く評価され、和牛のオリンピックと呼ばれる全国和牛能力共進会でもいくつもの賞を獲得し名声を博しました。
その一方で、『神石牛』は広島県下でも和牛の改良の歴史が古く、大正時代から始まったと言われています。神石郡では大正5年4月に創設された広島県営の種畜場が設立し、種雄牛を育成して、広島県下に配布されました。種雄牛が県内、県外に購買される頭数も多く、神石牛の名前は全国に広がりました。その後も、独自の改良を重ねていき、その血統を引き継ぐ神石牛は、種牛・肉質両面で日本一の栄冠にも輝きそのブランドは確固たるものとなりました。このように高く評価された『比婆牛』と『神石牛』のブランドですが、1986年に広島県の他産地との差別化戦略として県統一のブランド『広島牛』の構築が始まり、それと同時に広島県で流通する和牛を広島牛で統一され、それにより、『比婆牛』、『神石牛』の名前が国内流通から消滅しました。各地で様々な社会現象、情勢により日本各地で差別化を図るための和牛の地域ブランドが増加し始めましたが、広島牛は生産者の高齢化などが原因で飼育頭数が減少し、他県のブランド戦略の後手を踏んでいました。そのような状況の中で、TPPなどの交渉が進み、国内の牛肉市場が更に厳しい状況になることが予想されて、広島県は、再度ブランド戦略の構築を求められる中で、広島の和牛の『血統』に着目し、比婆牛、神石牛の地域ブランドが復活することになりました。

うまさの秘密

ストレスのない気候・環境が牛を美味しくする

牛肉の味を決めるに重要な要素の1つとして、牛にストレスを与えない環境づくりがあげられます。広島県は穏やかな気候と豊かな自然に恵まれており、牛にとって快適な環境です。この自然環境が高品質な黒毛和牛を育ててくれます。広島の和牛は、筋繊維が細く、程よい身の締まりと、適度な脂、そして和牛ならではの深いコクを醸し出します。広島牛は、生産者たちの情熱と努力とこの温暖な広島の気候から生まれたブランド牛です。