ルーツ

元祖広島風お好み焼きは関西生まれ

広島風お好み焼き誕生のルーツは、大正時代にまでさかのぼります。当時、主に関西では「一銭洋食」というものがよく食されていました。これは水で溶いた小麦粉にネギや少しの肉などの具材をのせ、鉄板で焼いた駄菓子のこと。洋食と名がつきますが、食卓に登場することはほとんどなく、主に子どもたちにおやつとして親しまれていました。焼いたお好み焼きにはウスターソースをかけて食べるのですが、当時はお好み焼きやウスターソース自体が珍しく異国情緒を感じるものだとされていたので、「洋食」の名がついたそうです。そしてこの駄菓子がよく1枚1銭で売られていたことから、「一銭洋食」と呼ばれるようになりました。時代は下って昭和初期、一銭洋食は関西を飛び出して広島でも食べられるようになり、人々の生活に浸透していきます。これが、後の広島風お好み焼きのルーツとなったのです。

戦争とその後

急速にお好み焼きが食べられるようになった戦後

一銭洋食がさらに人々によく食べられるようになったのには、大きなきっかけがありました。第二次世界大戦、そして原子爆弾の投下です。焼け野原になった広島の街。米軍から配給されるのはわずかな小麦粉。人々はその日一日を生き延びていくため、知恵を絞りました。そこで多くの人々がたどり着いたのは、小麦粉があれば作ることができる一銭洋食でした。戦前は子どものおやつとして知られていた一銭洋食も、戦後の食糧難で老若男女に親しまれるようになります。キャベツをはじめとする安価な具材を盛り込んだ一銭洋食は、戦後の庶民の生活を支えました。

お好みの進化

戦後の復興とともに、お好み焼きは進化

その後日本全土が復興していくとともに生活にゆとりが生まれると、好きなものを入れて焼くのが「お好み焼き」のスタンダードになっていきます。具材として肉や魚介類を入れるようになり、お好み焼きの厚みも増します。こうしたお好み焼きの変化に合わせ、ソースも進化していきます。一銭洋食にはよくウスターソースがかけられていましたが、とろみと味の濃さを加えたお好みソースが使われるようになりました。そして広島の街にはお好み焼きの屋台が軒を連ねるようになります。ちなみに、その時代に生まれた老舗のお好み焼き屋には「○○ちゃん」という名前がついていることが多いんです。これは戦争によって夫に先立たれてしまった女性が自分の愛称を店名にし、なんとか生き抜いていこうとしたことの表れなんだとか。この時期に広島で独自の進化を遂げたお好み焼きが、現在の広島風お好み焼きのベースとなっています。

全国での認知

広島風お好み焼きがついに日本全国に知れ渡る

屋台はやがて店になり、昭和中期の広島にはさらにお好み焼きの文化が根付いていきます。しかし、広島風お好み焼きが広島の中でさかんに食べられるようになっても、実は全国での知名度はさほどありませんでした。あくまで地元の人々たちの間だけで親しまれる、ある種の郷土料理のような位置づけだったのです。そんな広島風お好み焼きが全国に知れ渡るようになったのは1975年ごろから。この年、広島東洋カープがセ・リーグで悲願の初優勝を遂げ、球団とともに本拠地である広島は全国からの注目を集めたのです。そして全国放送のテレビ中継で、広島のお好み焼き店がカメラに映ります。これをきっかけに広島風お好み焼きの存在が日本中に知れ渡り、お好み焼きは広島グルメの代名詞となりました。その後、全国にも広島風お好み焼きの店ができるようになっていきました。これ以降、関西風のお好み焼きと広島風のお好み焼き両方を提供するようになったお店も少なくないそうです。

ソウルフード

地元の人も、観光客も。誰もが楽しむお好み焼き

その後も広島風お好み焼きは順調に知名度を上げ、今では牡蠣やもみじ饅頭と並んで「広島の食」の定番になりました。現在広く親しまれている広島風お好み焼きは、薄く焼き上げた生地の上にもやしやキャベツ、肉や魚介類などの好きな具材をのせ、そこに麺を加えたもの。麺もうどんや焼きそばなど、好きなものを選ぶことができます。その後裏返して蒸すように焼くためキャベツの甘さや麺の柔らかさ、肉の旨みが引き立つのが特徴です。広島市内にはたくさんのお好み焼き店があるため、市内に訪れる際にはいつもお好み焼きを食べるという人も少なくありません。中でも特に観光客に人気なのは、広島市中区にある「お好み村」。ビルの中にたくさんのお好み焼き店が所狭しと並びます。お好み村のビルは昭和30年代にお好み焼きの屋台がたくさん集まっていたエリアに位置していることから、広島風お好み焼きの歴史を代表するような場所ともいえます。ぜひお好み焼きを食べる際にはその歴史にも思いを馳せてみてください。お好み焼きの味が、少し違うように感じるかもしれません。